・犯罪数をランキング化すると以下の通りとなる。
1位:日経新聞
2位:NHK
3位:毎日新聞、テレビ朝日、朝日新聞
ただ、逮捕や書類送検にいたらずとも、社内調査で発覚し、社内処分のみで終わっているケースが多い社もある。
社内処分も含めると、1位はNHKだった。
◇児童買春・痴漢からインサイダー・詐欺、年齢も30~60代まで
10月4日、日経新聞の元幹部・田中猛氏が、助成金詐欺の疑いで逮捕された。公金をだましとった当時、同容疑者は日経本社の局次長級の現役幹部だった。このほどマスコミ各社社員の逮捕・摘発について詳細にまとめたところ、これで日経の逮捕者は今年に入ってからだけでも6人となり、テレビ・新聞各社のなかでダントツ一位だった。
日経はこれで、今年に入って表面化しただけでも、既に逮捕者が6人。容疑も、児童買春や痴漢から、インサイダー、詐欺と幅広く、年齢も30代から60代まで各層にわたっており、会社に染み付いた体質がもたらしていると考えるほかない。
◇自社の不祥事を報道しない日経
日経は、グループの「テレビ東京」の看板ニュース番組「ワールドビジネスサテライト」の4日夜の放送で、6人目の逮捕者について一秒も報じなかった。もう6人目だしいつものことだから、ということで「ニュースではない」という判断かもしれないが、局次長クラスの幹部の逮捕だからなおさら報道できなかったのだろう。こういう姿勢からも、反省していないことが、はっきりと分かる。
・マスコミ犯罪ランキング1位は日経 今年既に逮捕者6人、質・量とも最悪
2016年5月9日月曜日
2016年5月7日土曜日
【太平洋戦争】日本国内マスメディアの戦争責任
マスメディアの戦争責任
マスメディアが国民に事実を報道することを怠ったり、対外強硬論を助長する報道を行うことで、開戦に至ったり戦争の長期化を招くことに対する責任論である。
戦前の日本では1909年(明治42年)5月6日に公布された新聞紙法によって新聞は検閲の対象となっており、軍や政府は記事差止命令や写真の不掲載といった措置を取ることができた。
大正時代まではこうした環境下にあっても露骨な言論統制が行われる機会は少なかったが、1931年(昭和6年)の満州事変以後、軍の政治に対する発言力が増大すると、正面から政府や軍を批判する記事の掲載が困難となっていった。
ただし、他の国家と異なる点は独裁者が存在せず、あくまで自主的な規制を求めるのみで、完全な言論統制は実施されないまま、部数を伸ばすために一部大手新聞社による好戦的かつ扇情的見出しが毎日のように紙面を彩る状況を制御出来ず、これは枢軸国側で唯一、内閣制度と国会及び選挙実施を戦時中においても維持した民主主義体制が逆に災いし、暴走するマスメディアの極右的扇動を禁止する事が難しかったとされる。
該当するマスメディアは戦後に責任追求を避けるため「政府に強制された」との言い逃れや、「陸軍のみに責任転嫁する」事でほとんど罰せられなかった。
戦後はあくまでも中立を装い、自らを言論統制の被害者として振る舞う事で記事を書き続けた新聞記者も多かった。
この点は徹底してマスメディア関係者の戦争責任追求が行われた欧米と異なる点だとされ、政府と無関係の記事にさえ好戦的な人種差別的表現を掲載した新聞社や記者が負うべき責任を負わずに、「極右から極左へ」と揶揄された転向により、「軍国主義という体制が存在したと捏造(実際には議院内閣制を終戦まで維持していた)」した事で現実との乖離が発生し、これは現在に至る新聞やテレビなど日本の大手マスメディアにおいて、頻繁に見られる偏向報道が始まる端緒となったと指摘されている。
とりわけ、1937年(昭和12年)からの日中戦争の勃発とそれに続く1938年(昭和13年)の国家総動員法の制定はそれを決定づけることになった。この点は当時唯一の放送機関であった日本放送協会においても変わるところはなかった。
このような言論統制の「被害者」という主張がする一方で、新聞は政府の外交政策を「弱腰」「軟弱外交」という形で糾弾し、対外強硬論を煽り、開戦を主張するなど、国民を開戦支持に導く役割も果たした。
・当時の日本政府による法的裏付けが無い標語など、戦後に軍国主義の象徴として、新聞社側が軍側に責任転嫁した事例
「敵性語(英語)排外キャンペーン」(全国紙各社による共同キャンペーン、該当する法律は無く強制性もなかった)
「鬼畜米英」(人種差別的表現を用いた全国紙の一部による英米国民への偏見を植え付けた標語だが、これも強制した法律は無い)
「大東亜共栄圏」(元々新聞記者の個人的な造語であり、新聞発の流行語として国民に受け入れられた後に政府が追認した概念)
・マスメディアの戦争責任
・朝日の戦争責任
マスメディアが国民に事実を報道することを怠ったり、対外強硬論を助長する報道を行うことで、開戦に至ったり戦争の長期化を招くことに対する責任論である。
戦前の日本では1909年(明治42年)5月6日に公布された新聞紙法によって新聞は検閲の対象となっており、軍や政府は記事差止命令や写真の不掲載といった措置を取ることができた。
大正時代まではこうした環境下にあっても露骨な言論統制が行われる機会は少なかったが、1931年(昭和6年)の満州事変以後、軍の政治に対する発言力が増大すると、正面から政府や軍を批判する記事の掲載が困難となっていった。
ただし、他の国家と異なる点は独裁者が存在せず、あくまで自主的な規制を求めるのみで、完全な言論統制は実施されないまま、部数を伸ばすために一部大手新聞社による好戦的かつ扇情的見出しが毎日のように紙面を彩る状況を制御出来ず、これは枢軸国側で唯一、内閣制度と国会及び選挙実施を戦時中においても維持した民主主義体制が逆に災いし、暴走するマスメディアの極右的扇動を禁止する事が難しかったとされる。
該当するマスメディアは戦後に責任追求を避けるため「政府に強制された」との言い逃れや、「陸軍のみに責任転嫁する」事でほとんど罰せられなかった。
戦後はあくまでも中立を装い、自らを言論統制の被害者として振る舞う事で記事を書き続けた新聞記者も多かった。
この点は徹底してマスメディア関係者の戦争責任追求が行われた欧米と異なる点だとされ、政府と無関係の記事にさえ好戦的な人種差別的表現を掲載した新聞社や記者が負うべき責任を負わずに、「極右から極左へ」と揶揄された転向により、「軍国主義という体制が存在したと捏造(実際には議院内閣制を終戦まで維持していた)」した事で現実との乖離が発生し、これは現在に至る新聞やテレビなど日本の大手マスメディアにおいて、頻繁に見られる偏向報道が始まる端緒となったと指摘されている。
とりわけ、1937年(昭和12年)からの日中戦争の勃発とそれに続く1938年(昭和13年)の国家総動員法の制定はそれを決定づけることになった。この点は当時唯一の放送機関であった日本放送協会においても変わるところはなかった。
このような言論統制の「被害者」という主張がする一方で、新聞は政府の外交政策を「弱腰」「軟弱外交」という形で糾弾し、対外強硬論を煽り、開戦を主張するなど、国民を開戦支持に導く役割も果たした。
・当時の日本政府による法的裏付けが無い標語など、戦後に軍国主義の象徴として、新聞社側が軍側に責任転嫁した事例
「敵性語(英語)排外キャンペーン」(全国紙各社による共同キャンペーン、該当する法律は無く強制性もなかった)
「鬼畜米英」(人種差別的表現を用いた全国紙の一部による英米国民への偏見を植え付けた標語だが、これも強制した法律は無い)
「大東亜共栄圏」(元々新聞記者の個人的な造語であり、新聞発の流行語として国民に受け入れられた後に政府が追認した概念)
・マスメディアの戦争責任
・朝日の戦争責任
【冤罪偏向報道】松本サリン事件 冤罪偏向報道事件
松本サリン事件
1994年(平成6年)6月27日に日本の長野県松本市で発生したテロ事件。
警察庁における事件の正式名称は松本市内における毒物使用多数殺人事件。
オウム真理教教徒らにより、神経ガスのサリンが散布されたもので、被害者は死者8人、重軽傷者660人に及んだ。
無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件・報道被害事件でもある。
また、報道被害を受けた河野義行氏とご家族も松本サリン事件により被害を受けている。
1994年6月27日
日本の長野県松本市で松本サリン事件発生。
河野義行氏が松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。
警察の捜査および情報のリークを受け、被疑者不詳であるなかで地元紙や主要な全国紙を含め、多くのメディアが河野を犯人と決め付けて扱った。
河野やその家族は断続的に長野県警松本警察署からの取り調べを受けたが、有力な証拠が見つからず逮捕されることはなかった。
マスコミは、一部の専門家が「農薬からサリンを合成することなど不可能」と指摘していたにもかかわらず、オウム真理教が真犯人であると判明するまでの半年以上もの間、警察発表を無批判に報じたり、河野が救急隊員に「除草剤をつくろうとして調合に失敗して煙を出した」と話したとする警察からのリークに基づく虚偽の情報を流すなど、あたかも河野が真犯人であるかのように印象付ける報道を続けた。
実際は、事件発生当日の1994年6月27日に河野が薬品を調合した事実はなかった。
事件の真相が明らかになるまで、河野宅には全国から一般人による多くの誹謗中傷の手紙が送りつけられた。
『週刊新潮』は、「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題した記事で河野家の家系図を掲載した。
地下鉄サリン事件後も河野は週刊新潮のみ刑事告訴を検討していたが、謝罪文掲載の約束により取り下げた。
現在も河野は「週刊新潮だけは最後まで謝罪すらしなかった」と語っている。
このことは一部宗教団体などにより攻撃材料として利用されているにもかかわらず、河野との約束は現在もなお守られていない。
その後、山梨県の上九一色村(現・富士河口湖町)のオウム施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年(平成7年)3月20日に発生した地下鉄サリン事件によって、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。
・以下は実際に報道が行われた偏向報道
「惨事 なぜこんなことを 数種類の農薬混合か」(信濃毎日新聞 1994年6月29日朝刊)
「会社員関与ほのめかす 家族に「覚悟して」 薬品20点余 鑑定急ぐ」(信濃毎日新聞 1994年6月29日夕刊)
「何のための薬品混合? 自宅で処理 化学反応 複数の薬品 発生か」(同上)
「会社員宅から薬品押収 農薬調合に失敗か 松本ガス中毒」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊1面)
「隣人が関係 除草剤作りの会社員が通報 松本ガス中毒死」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「毒物と隣り合う暮らしの怖さ」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊社説)
「雨の深夜、不審な調剤 深まるナゾ 松本ガス中毒死事件」(朝日新聞 1994年6月29日夕刊社会面)
「素人の調合に危うさ 酸混入でガス 松本ガス中毒死事件」(同上)
「松本の有毒ガス、調合ミスで発生 長野県警が見方固める」(朝日新聞 1994年6月30日夕刊社会面)
「ケムシ駆除が目的の可能性 松本の有毒ガス事件」(朝日新聞 1994年7月1日朝刊社会面)
「松本市のガス中毒 通報の会社員宅捜索 薬品数点を押収 / 捜査本部」(読売新聞 1994年6月29日朝刊1面)
「松本ガス事故 住宅街の庭で薬物実験!? 会社員宅の押収薬品「殺傷能力ある」」(読売新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「松本市の農薬中毒事件 通報の会社員を聴取 薬品押収、20点余」(読売新聞 1994年6月29日夕刊社会面)
「松本の有毒ガス集団中毒 会社員宅から薬品押収 事情聴取へ」(NHKニュース 1994年6月29日7時)
「松本の毒ガス集団中毒 二十本以上の薬品押収 会社員聴取へ」(NHKニュース 1994年6月29日12時)
「第一通報者宅を捜索 「薬品調合、間違えた」と救急隊に話す - 松本のガス中毒死」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊1面)
「「オレはもうダメだ」座り込む会社員、症状訴え救急隊員に - 松本のガス中毒事件」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「前代未聞の猛毒、住民に戦りつ - 松本のガス」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊地方版)
「納屋に薬品二十数点、以前から収集か 会社員を聴取へ - 松本のガス中毒事件」(毎日新聞 1994年6月29日夕刊社会面)
「「男性会社員」宅捜索…住民、やっと安堵の表情 - 松本のガス中毒事件 / 長野」(毎日新聞 1994年6月30日朝刊地方版)
「樹木に薬品、効き目なく 「自分で希釈中にガス」 - 松本のガス中毒事件で会社員供述」(毎日新聞 1994年6月30日夕刊社会面)
「「まさか」「どうして」 松本の有毒ガス事故 惨劇、意外な展開」」(中日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「第一通報者宅を捜査 松本の有毒ガス事故 薬品 数点を押収 捜査本部」(中日新聞 1994年6月29日朝刊1面)
1994年(平成6年)6月27日に日本の長野県松本市で発生したテロ事件。
警察庁における事件の正式名称は松本市内における毒物使用多数殺人事件。
オウム真理教教徒らにより、神経ガスのサリンが散布されたもので、被害者は死者8人、重軽傷者660人に及んだ。
無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件・報道被害事件でもある。
また、報道被害を受けた河野義行氏とご家族も松本サリン事件により被害を受けている。
1994年6月27日
日本の長野県松本市で松本サリン事件発生。
河野義行氏が松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。
警察の捜査および情報のリークを受け、被疑者不詳であるなかで地元紙や主要な全国紙を含め、多くのメディアが河野を犯人と決め付けて扱った。
河野やその家族は断続的に長野県警松本警察署からの取り調べを受けたが、有力な証拠が見つからず逮捕されることはなかった。
マスコミは、一部の専門家が「農薬からサリンを合成することなど不可能」と指摘していたにもかかわらず、オウム真理教が真犯人であると判明するまでの半年以上もの間、警察発表を無批判に報じたり、河野が救急隊員に「除草剤をつくろうとして調合に失敗して煙を出した」と話したとする警察からのリークに基づく虚偽の情報を流すなど、あたかも河野が真犯人であるかのように印象付ける報道を続けた。
実際は、事件発生当日の1994年6月27日に河野が薬品を調合した事実はなかった。
事件の真相が明らかになるまで、河野宅には全国から一般人による多くの誹謗中傷の手紙が送りつけられた。
『週刊新潮』は、「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題した記事で河野家の家系図を掲載した。
地下鉄サリン事件後も河野は週刊新潮のみ刑事告訴を検討していたが、謝罪文掲載の約束により取り下げた。
現在も河野は「週刊新潮だけは最後まで謝罪すらしなかった」と語っている。
このことは一部宗教団体などにより攻撃材料として利用されているにもかかわらず、河野との約束は現在もなお守られていない。
その後、山梨県の上九一色村(現・富士河口湖町)のオウム施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年(平成7年)3月20日に発生した地下鉄サリン事件によって、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。
・以下は実際に報道が行われた偏向報道
「惨事 なぜこんなことを 数種類の農薬混合か」(信濃毎日新聞 1994年6月29日朝刊)
「会社員関与ほのめかす 家族に「覚悟して」 薬品20点余 鑑定急ぐ」(信濃毎日新聞 1994年6月29日夕刊)
「何のための薬品混合? 自宅で処理 化学反応 複数の薬品 発生か」(同上)
「会社員宅から薬品押収 農薬調合に失敗か 松本ガス中毒」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊1面)
「隣人が関係 除草剤作りの会社員が通報 松本ガス中毒死」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「毒物と隣り合う暮らしの怖さ」(朝日新聞 1994年6月29日朝刊社説)
「雨の深夜、不審な調剤 深まるナゾ 松本ガス中毒死事件」(朝日新聞 1994年6月29日夕刊社会面)
「素人の調合に危うさ 酸混入でガス 松本ガス中毒死事件」(同上)
「松本の有毒ガス、調合ミスで発生 長野県警が見方固める」(朝日新聞 1994年6月30日夕刊社会面)
「ケムシ駆除が目的の可能性 松本の有毒ガス事件」(朝日新聞 1994年7月1日朝刊社会面)
「松本市のガス中毒 通報の会社員宅捜索 薬品数点を押収 / 捜査本部」(読売新聞 1994年6月29日朝刊1面)
「松本ガス事故 住宅街の庭で薬物実験!? 会社員宅の押収薬品「殺傷能力ある」」(読売新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「松本市の農薬中毒事件 通報の会社員を聴取 薬品押収、20点余」(読売新聞 1994年6月29日夕刊社会面)
「松本の有毒ガス集団中毒 会社員宅から薬品押収 事情聴取へ」(NHKニュース 1994年6月29日7時)
「松本の毒ガス集団中毒 二十本以上の薬品押収 会社員聴取へ」(NHKニュース 1994年6月29日12時)
「第一通報者宅を捜索 「薬品調合、間違えた」と救急隊に話す - 松本のガス中毒死」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊1面)
「「オレはもうダメだ」座り込む会社員、症状訴え救急隊員に - 松本のガス中毒事件」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「前代未聞の猛毒、住民に戦りつ - 松本のガス」(毎日新聞 1994年6月29日朝刊地方版)
「納屋に薬品二十数点、以前から収集か 会社員を聴取へ - 松本のガス中毒事件」(毎日新聞 1994年6月29日夕刊社会面)
「「男性会社員」宅捜索…住民、やっと安堵の表情 - 松本のガス中毒事件 / 長野」(毎日新聞 1994年6月30日朝刊地方版)
「樹木に薬品、効き目なく 「自分で希釈中にガス」 - 松本のガス中毒事件で会社員供述」(毎日新聞 1994年6月30日夕刊社会面)
「「まさか」「どうして」 松本の有毒ガス事故 惨劇、意外な展開」」(中日新聞 1994年6月29日朝刊社会面)
「第一通報者宅を捜査 松本の有毒ガス事故 薬品 数点を押収 捜査本部」(中日新聞 1994年6月29日朝刊1面)
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