2016年5月7日土曜日

【太平洋戦争】日本国内マスメディアの戦争責任

マスメディアの戦争責任
マスメディアが国民に事実を報道することを怠ったり、対外強硬論を助長する報道を行うことで、開戦に至ったり戦争の長期化を招くことに対する責任論である。

戦前の日本では1909年(明治42年)5月6日に公布された新聞紙法によって新聞は検閲の対象となっており、軍や政府は記事差止命令や写真の不掲載といった措置を取ることができた。
大正時代まではこうした環境下にあっても露骨な言論統制が行われる機会は少なかったが、1931年(昭和6年)の満州事変以後、軍の政治に対する発言力が増大すると、正面から政府や軍を批判する記事の掲載が困難となっていった。

ただし、他の国家と異なる点は独裁者が存在せず、あくまで自主的な規制を求めるのみで、完全な言論統制は実施されないまま、部数を伸ばすために一部大手新聞社による好戦的かつ扇情的見出しが毎日のように紙面を彩る状況を制御出来ず、これは枢軸国側で唯一、内閣制度と国会及び選挙実施を戦時中においても維持した民主主義体制が逆に災いし、暴走するマスメディアの極右的扇動を禁止する事が難しかったとされる。

該当するマスメディアは戦後に責任追求を避けるため「政府に強制された」との言い逃れや、「陸軍のみに責任転嫁する」事でほとんど罰せられなかった。
戦後はあくまでも中立を装い、自らを言論統制の被害者として振る舞う事で記事を書き続けた新聞記者も多かった。
この点は徹底してマスメディア関係者の戦争責任追求が行われた欧米と異なる点だとされ、政府と無関係の記事にさえ好戦的な人種差別的表現を掲載した新聞社や記者が負うべき責任を負わずに、「極右から極左へ」と揶揄された転向により、「軍国主義という体制が存在したと捏造(実際には議院内閣制を終戦まで維持していた)」した事で現実との乖離が発生し、これは現在に至る新聞やテレビなど日本の大手マスメディアにおいて、頻繁に見られる偏向報道が始まる端緒となったと指摘されている。
とりわけ、1937年(昭和12年)からの日中戦争の勃発とそれに続く1938年(昭和13年)の国家総動員法の制定はそれを決定づけることになった。この点は当時唯一の放送機関であった日本放送協会においても変わるところはなかった。

このような言論統制の「被害者」という主張がする一方で、新聞は政府の外交政策を「弱腰」「軟弱外交」という形で糾弾し、対外強硬論を煽り、開戦を主張するなど、国民を開戦支持に導く役割も果たした。

・当時の日本政府による法的裏付けが無い標語など、戦後に軍国主義の象徴として、新聞社側が軍側に責任転嫁した事例
「敵性語(英語)排外キャンペーン」(全国紙各社による共同キャンペーン、該当する法律は無く強制性もなかった)
「鬼畜米英」(人種差別的表現を用いた全国紙の一部による英米国民への偏見を植え付けた標語だが、これも強制した法律は無い)
「大東亜共栄圏」(元々新聞記者の個人的な造語であり、新聞発の流行語として国民に受け入れられた後に政府が追認した概念)


マスメディアの戦争責任
朝日の戦争責任

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